メにはメを パにはパを

このブログでは、主にお笑いのことを書いていく予定です。ネタ番組をはじめ、バラエティ番組、芸人ラジオ等、幅広く扱えればと思っています。 他ジャンルに不倫するかもしれないですが、そっとしておいてください。

『超入門!落語 THE MOVIE』論

立川談志『現代落語論』(1965年/三一書房)を読んでいると、下記の一節がある。

 

テレビに写る落語はつまらないという話をよく聞くが、たしかにその通りで、ラジオで聞く落語は楽しいのに、どうしてテレビでみる落語というものはどうしてまああんなにおもしろくないのだろうかとみるたびに思う。なぜだろうか。

 

『現代落語論』ではその後、演じ手がテレビ視聴者への意識に欠けるためという仮説を立て、簡単な実験を行い立証をしていくのだが、この仮説は半分あたっていて半分間違っている。

テレビが映像情報に依存する「視覚」メディアであるのに対し、落語は視覚的省略により物語を進めていく「聴覚」重視型のメディアであり、両者は決定的に相いれないため。私はそのように考える。(65年当時にテレビメディアの特性を直観していた立川談志はやはり天才だと思う。)

つまり、言葉と仕草のみで表現する落語の画は、テレビ的観点からみれば決定的に情報量が不足(省略ではなく不足だ)しており、「観ていてつまらない」のだ。現に現在テレビにて放送されている落語中継も、(寄席に通うような熱心な)落語好きが、(寄席で生で見られないために仕方なく)テレビで見ているもの、という立場に甘んじている。

 

テレビというメディアにてお笑いが発展を遂げる過程にて、「落語のテレビ化」という問題は度々持ち上がってきた。落語の物語をドラマ化し、コメディドラマとして放送されることも度々あったが、物語が弱かったり、ギャグの弱さが露呈したり、失敗に終わることも多かった。

落語の物語は、落語の時間展開で、落語のギャグの店舗があって、初めて成立する構造となっている。構造の改変に着手をすれば、物語としてダレる。落語への敬意があればあるほど改変作は失敗に終わる。それが通説だった。

 

その「落語のテレビ化」という主題に対し、画期的な回答を提示しているのが、『超入門!落語 THE MOVIE』(NHK/木曜22:25~)だ。番組が提示した方法は以下だ。寄席(新宿末広亭だと思われる)にて落語を収録し、音声だけを抽出する。その音声素材に対し、役者の「アテブリ」(逆アフレコの形式となる)の視覚素材を重ね、映像とする。結果として、画面=ドラマ、音声=落語、という奇妙な形式の映像が形成されることになる。

 

本方式の最大の功績は、ドラマというテレビ的空間の中に、落語的時間を存在させたことにある。落語の音楽性・リズムを残したうえで、テレビ的な映像強度を獲得している。だから、「面白い」。寄席で落語を見るのと同様の感覚で、笑えるのだ。

 そして、落語のリズムと映像のリズムは響きあい、独自の時間展開を獲得する。落語のリズムは「上下」(=首を左右に振り、人物を切り替えること)によって生まれる。一方、映像のリズムはカッティング(=カメラの位置を切り替えること)による。例えば、落語序盤の長台詞(「崇徳院」の病状説明など)の場面では、人物の切り替えは行われていないが、画角は変更されている。下から、上からの不安定なカットや、カメラの水平移動、クローズアップ、手持ちカメラによる不安定な構図もある。落語的リズムをベースに、映像的なリズムが音楽的に響きあうことで、可笑性が倍増する。

 

欠点はまだある。落語的な「洒落」の笑いが冗長になったり、落語家が非協力的な場合には惨事になったり(「くしゃみ講釈」は酷かった。)、当たりハズレがまだあるというのが現在の印象である。

ただ、この方法論はもっと極められてもよいのではないだろうか。画角を厳密に確定し、映像を極めるべきだ。映像作家と演技力のある役者を招き、作品として発表すべきだ。傑作といわれる落語音源を使用し、人情噺に挑戦すべきだ。

誰も言わないならば私が言いたい。この方法には大きな可能性があると思う。この方法を極めることは、間違いなくお笑い文化の発展につながる。

 

少なくとも、「寄席に足を運んでみては」なんて濱田岳に言わせるような、ちゃちな番組ではない。もっとすごいことになってほしい。